この時代に、写真を考える。

 

 真っ白なキャンバスに絵を描くとします。真っ白、すなわち「ゼロ」の状態から、筆を走らせ、最終的になにかを表現するカタチ・イメージにする。企業的なコンセプトや個人の持つ思想はあったとしても、毎回毎回、白い紙からのスタート。画家やイラストレーターの仕事とは、一般的にはそういうことなのだと思います。

 

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 音楽を奏でることもまた、「ゼロ」から芸術的に価値のある作品を生み出すということに変わりありません。もともとここは、なにもしなければ音の鳴らない世界ですからね。歌手や作曲家、演奏家たちは、そういった意味で大いにクリエイティブなことをしているのです。

 

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 このようなゼロからの創生としての芸術には無限の可能性がある一方で、才能、または並大抵ではない努力経験(身になっていなければならない)を備えていることが望まれます。本を書くにも、彫刻を掘るにも、映画を作るにも、(基本的には)ゼロからのスタート。表現としての芸術は、そういった性質を持ち合わせているはずです・・・が。

 

 型破りな芸術がここにひとつ。そう、写真です。

 

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 「真実を写す」と書くくらいですから、真実がなければ、写真は写真ではなくなってしまいます。「真実」というきわめて抽象的な言葉を具体化するならば、「世の中にあるモノ・ヒト・コト」のことです。あなたがいま手にしているスマホも、あなたにとっての僕も、あなたがいまこの記事を読んでいることも、すべてが真実であると断言できます。

 

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コーヒーというモノ・コーヒーを淹れるヒト・コーヒーを淹れるというコト

 

 勘のいい方はすでに気がついているかもしれませんが、写真が「真実を写しているもの」である時点で、決してゼロからの創生としての芸術ではないことになります。表現活動を開始しようとした時点で、既に毅然とした真実があるのです。絵画や音楽とはずいぶん質が違います。

 

 この観点から、「写真はただの記録技術であり、芸術ではない」という攻撃を以前から受けてきたそうです(Wiki調べ)。

 

 かくいう僕も、記録用の手段として写真を撮る機会はたくさんあります。成人式や同窓会で、同級生とたくさん写真を撮るのはこのためです。そこに「芸術的に撮ろう」というひねくれた意識はまったく存在していません。

 

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記録としての写真

 

 きっとほとんどの人が、写真を記録用の手段として捉えているでしょう。あなたがその一人である可能性は十分に高いと思います。もしそうでないとするならば、あなたと僕とは親しい関係性である可能性がかなり高いです。にやり。

 

 しかし昔に比べれば、写真に対する芸術的な関心は高まっているはずです。その主たる要因はSNS時代の到来」にあると考えています。

 

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 写真を公開する一つのギャラリーとしてSNS(主にツイッターとインスタグラム)が用いられるようになり、その役割が確立されることで写真に対する芸術的なモチベーションが全国的に増大しました。使用料金が発生せず、簡易的な操作によって自分の作品を世に‘出展’することができるようになったのです。

 

   そして承認欲求や自己顕示欲、さらに上の段階にある自己実現欲求が、撮り手に「差別化」の意識を与え、想像力や技術の研磨に拍車をかけたのではないでしょうか。

 

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 僕は、カメラで撮った写真をPCに移し、編集します。元写真の明るさや色味、トーンなどを整えることで自分の理想とする一枚に仕上げてゆくのです。長い時は一枚に30分以上の時間を費やします。この過程で、自分好みのユニークな色味を見つける。そう、差別化を図るのです。

 

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 もちろん、撮影の段階で個性を発揮する人々もいます。世界に溢れかえる「真実」を、まだ誰も知らない部分、角度、距離感で見ることで、唯一無二の写真を作るきっかけにする。難しいことですが、できる人はできています(僕にはまだ難しいようですが)。

 

 このような過程は、真っ白なキャンバスに絵を描くことや、一から音楽を制作することと非常に似ています。両者とも、目指すところは「オリジナルな作品」です。

 

 両者の違いは、スタート地点が「ゼロ」か「真実」か、たったそれだけのことなのです。そして僕は、真実から派生するオリジナリティに魅力を感じています。

 

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 ゼロからの創生の作業は、あまりにも自由で、曖昧で、漠然としています。一方で真実からの創生は、既にある程度の型が決まっているなかで個性をどれだけ反映させることができるか、ということにひたすら向き合うのです。ここにある種のゲーム性を感じます。まさに、無人島という限られた敷地のなかでユートピアを実現していく「あつ森」のようなゲーム性なのかもしれません。

 

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   自分らしく生きるというのは、とても難しいことだと思います。普通に生活していれば、他人に流されたり時代に流されたりするものです。僕自身、色々なものに流されてきました。

 

   そんななか、個性を表現しうるのは芸術にほかなりません。自分にとってはそれが写真を撮ることでした。

 

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   忙しなくともかけがえのなかった日常が、今、脅かされています。家にこもって「することがない」と嘆いているくらいなら、なにか芸術的なアクションを起こしてみてもいいかもしれません。自分らしさを、芸術として生み出す(または吸収する)チャンスなのです。

 

   かの有名な世界最大の文化大革命ルネサンス」は、ペスト(疫病)の終息の直後に起こりました。西欧の社会構造・ヒエラルキーが崩壊したことがきっかけであると言われていますが、家にこもった人々が創造性を発揮したことも一因でしょう。空白の時期は、全くの空白ではないのです。

 

 不謹慎ですが、今は芸術に触れる絶好の機会です。映画を観たり、料理をしたり、本を読んだりと、やることは無限にあります。僕はこの機会にドリフターズのコントを見尽くしてやります。そうやって、新たな自分らしさを構築していきたいものです。

 

それでは。